私は日記をつけていない。
だがこの本を読むと、私は日記をつけている、ことになる。
「趣味はなんですか」と尋ねられたとき「日記をつけること」と返すのは、なんだか高尚な人間のように思える。一つのことを継続できる努力家で、ストイックなイメージだ。
そのイメージで考えるのであれば、私は日記を「つけていない」。
一方、私は文章が書くのが好きで、個人のnoteやブログサービス、X(旧Twitter)にほぼ毎日のようにテキストを投稿している。
その日起きたしょうもないこと・たまに取り出せる褒め・怒りなど……内容は様々だ。
くどうれいん曰く、その習慣は日記を「つけている」に当てはまるという。
毎日欠かさず決まったノートに日記を書いている人の日記と自分の「日記」を同じものだと思えない。そんな継続して毎日同じことができる人に、日記って本当に必要なのだろうか、とすら思う。
「日記を書きたいと思うきもちを持ち続けている」それだけでもう、ほとんどあなたの日記は上出来だ。きょうも書きたかったけれど書けませんでした、という一文が透明な文字であなたの肋骨の裏に浮かぶようになれば、それはもう日記なのだ。
この言葉に救われた人はたくさんいるのではないか。私である。
読み進めてたった数ページでこの言葉に出会えるというだけで、買ってよかった本だと思える。
以降は、くどうれいんの日記が続く。ほんの一言だけの日もあれば、どかっと長文が記されている日もある。
「何も書きたくない」「やる気があるので筆を取ろう」と、日によって文章の長さにむらがあるのも人間らしい。
小説もエッセイも短歌も俳句も、何も書かなければ作品ではない。しかし、日記は「何を書かなかった日」として成立する。
日記とは、私という(あなたという)人生のあらわれだ。書けなかった日もまた日記である。
それはそうと、くどうれいんの日記は面白い。
読んでいると、ものごとの捉え方に驚かされることが多く、プリティな女性なんだろうなと思う。
人を惹きつける——というより、関わってくれた人々に必ずいい思いをして帰ってもらいたい、という意思が感じられる。
特に面白いなあ、と思った箇所を抜粋する。
遠野でイベントのあと打ち上げの会場まで歩きながら「あーたのしい」と言うと、「れいんちゃんはいつも、たのしかった、じゃなくてたのしい、って言うのがいいよね」と言われて、あ、これは日記に書きたいな、と思った。
これは私も言いたい。
直接的な言葉を口にすることだけが、愛を伝える手段ではない。
今ここにいる人に、今この瞬間がたのしいと伝えることは、イコール自分といて楽しい、ということに変換してもらえる素直な好意だ。
日本酒をたくさん飲むときに恋の話をしているとめろめろに酔うかんじがする。べろべろでなく、めろめろ。
この文を読むと、日本酒をたくさん飲みながら恋の話をしたくなる。
たしかに、日本酒のツンと来るクラっとした酔い方は、恋と似ている。
むしろ日本酒を飲んでるうちに、酔いに便乗して「恋の話をしようよ」と持ちかけるかもしれない。
ところで、この「めろめろ」というワードは作中に頻繁に出てくる。
マザー・テレサの「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。(中略)それはいつか運命になるから」という名言はすっかり有名だが、「めろめろ」というワードが頻繁に飛び出る"運命"というものを体感してみたい。めろめろ。
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《書籍情報》
『日記の練習』
くどうれいん 著
出版社:NHK出版 (2024/9/19)
ISBN: 978-4-14-005747-6